2016年3月10日取材
先生がこの世界に入られたきっかけをお伺いしたいのですが。
僕はもともと金沢大学で薬学部出身なんです。薬学部に進んだ理由は薬を作ってみたいという夢があったからなのですが、実際金沢大学に入ってみたら、薬を作る研究はそんなに生やさしいもの出はないなあと思って、実はいったん就職したんです。
そうなんですか。
そうなんです。たまたま新大学を作ろうとしているということで、コスモ石油という会社に入ったのですが、もともと石油会社なので薬を作るなんていうことは全くしていなかったんです。それで会社に入ってもなんかちょっと違うなと。
博士を取られてからですか?
いえ、博士は取ってないですね。修士の段階で「これはもうだめだな、薬はもう作れないな」と思って、それでいったん就職したんですけど、会社にいても将来自分がどうなるかという見通しが立たずにいたのです。それで会社の図書館でいろいろな雑誌を見ている時に、たまたまトロンボキサン受容体というGPCRをクローニングした、という記事を見つけて、それがたまたま京大の医学部の成宮周先生のところだったんですね。当時会社からは好きなことをやってもいいと言われていたのです。最初はたとえば1週間のうち月火水木と働いて、金土日は大学で研究してもいいと。それで僕は一応成宮先生のところにコンタクトを取って、最初は会社の上司と一緒にお会いしに行ったんです。その時は会社から京大に来られないかな、と思ったんですけど、会社の研究所は埼玉だったんです。
それはずいぶん離れていますね。
そうなんですよ(笑)。距離の問題もあって上司から「それは無理だ」と言われたんです。でも、始めて成宮先生にお会いした時に、研究に対する姿勢が、それまで見たことのある先生方とは全然違っていたので、もしかするともう一回この先生の下で研究すると何か面白いことができるのではないかと思って、次の年には会社を辞めてすぐに京大に来たんです。
成宮先生の所に来て、まずは薬理で学位をとるところから始めて、学位をとって全部で10年間やったんです。
次のきっかけになったのは、僕がダブルノックアウトマウスを作ったことです。「動脈硬化にトロンボキサン受容体とプロスタサイクリン受容体がどう関係しているかということを研究しろ」と言われて、動脈硬化モデルマウスとトロンボキサン受容体のダブルノックマウスと動脈硬化モデルマウスとプロスタサイクリン受容体のダブルノックアウトマウスをつくって、この二つの系統を解析した結果、前者では動脈硬化がひどくなって、後者では動脈硬化が抑えられるということがわかって、遺伝学的にそれが証明されたんです。そうなったときに、これならプロスタサイクリン受容体にはアゴニストとして作用して、トロンボキサン受容体にはアンタゴニストとして作用する、まあデュアル作用というか、二つの作用をもつ薬を作ると効果があるのではないかと思ったんですね。実際にはそのような薬はないんですけれど。そういった薬を作るにはどうしたらよいかと考えたときに、「受容体の構造を知らなければ作れないな」という壁にぶち当たったんです。2000年を過ぎたあたりでした。
ちょうどその頃、岡田哲二先生(現学習院大学)がウシのロドプシンの構造解析に成功して、岡田先生がそのことを京大の理学部で話をしたことがあって、それを成宮先生と聴きに行ったんです。それで、これからはGPCRも構造解析ができる時代が来るのではないかということで、成宮先生から「小林君、プロスタグランジン受容体の構造解析を目指して留学したらどうだ」と最初に言われたんです。岡田先生からは、発現系と精製系を立ち上げないと次には進めない、というアドバイスをいただきました。それで留学前にそこまでは立ち上げた方がいいということで、何とか何年かでそこまでもっていったんです。その間、成宮先生の所で発現や精製なんてやっているなんて僕一人だけだったんで、かなり大変だったんです。Sf9の系を立ち上げて、ファーメンターの系を立ち上げて、やったことのないタンパク質の精製もやるわけですから。
それは大変でしたでしょうね。すべて初めてのことで、それまでの仕事と全然違いますものね。
そうなんですよ。それをこつこつ一人でやっていて、かなり辛かったんですけど、何とか精製ができたので、次はどこに留学しようということになったんです。でも成宮先生からは、「構造解析をやっている人は知らないから自分で探して来い」といわれたんです(笑)。
それで理研の宮野雅司先生に相談したんです。そうしたら宮野先生から「イギリスのインペリアル大学に岩田想先生がおられるから、彼に相談してみたらどうだろう」と言われて、すぐに当時イギリスに移られたばかりの岩田先生にメールをしたら、岩田先生から、「イギリスに話に来てください」と返事があって。僕も学会の予定があったので、ついでにイギリスに行ったのが岩田先生にお会いした最初ですね。岩田先生ご自身はGPCRをやられていたわけではなく、大腸菌の膜タンパク質の構造解析を専門にやっていらしたのですが、どこかでやりたいと思っておられたのか、「まず、まあ留学してみたらどうですか」と言われて、それがきっかけで構造解析の仕事がスタートしたんです。
実際にイギリスに留学してスタートはしたんですが、研究室では大腸菌の発現しかしていなかったので、まず無菌培養室がないんですよ。それにファーメンターもない。それで無菌培養室から立ち上げなければならなかったんです。最初フラスコでやっていたんですけど、一度精製してみたら、「この計算で行くと一万個くらいのフラスコを一人で培養しなければ無理だ」ということになって(笑)。それは無理だなというところで、落としどころがメタノール資化酵母だったんです。だからメタノール資化酵母は始めたいと思って始めたのではなくて、昆虫細胞ではできなかったので始めたんです。
また新しいことですね。
そうなんですよ。メタノール資化酵母の発現なんて当然やったことなんかないですから、当時フランスでやっているチームのところに習いに行って、始めて岩田研でメタノール資化酵母の発現系を立ち上げて、精製できたのがアデノシンA2受容体だったんです。あれは確かにすごく安定なGPCR受容体だったので比較的すぐに精製できました。それがきっかけで後はヒスタミンH1受容体も発現できるようになって、最終的にはあの二つは構造解析で論文になったんです。
そんなときに岩田先生が「GPCRの構造解析をやろうとすると、抗体作成とかいろいろなことにお金が必要になるだろう。このままではお金が足らないので、大型の予算を取らなければならない」とおっしゃってERATOに応募したんですが、そのためには日本に本拠地を置かねばならない、ということになったんです。それで「小林君、留学したばっかりだけど日本に戻ってくれないか」と言われて、その時に探したところが岩田ヒト膜受容体プロジェクトの川崎のラボだったんですよ。僕はイギリスに3年か5年位いたいな、と思っていたんですけど、2年で急遽戻ることになったんです(笑)。
丁度その頃に学習院大学にいらした芳賀達也先生から連絡があって、ムスカリン受容体での共同研究がスタートしたんです。ムスカリン受容体はSf9の系で発現精製していて、この発現系は他のGPCRにも応用できるので、そこからずっと使用することになったんです。ムスカリン受容体も幸い論文にまとまって、これで3つのGPCRの構造が解けたというわけです。
元々は薬理学から出発して薬理学で10年、どうしても受容体の構造を知らないと薬は作れないということがわかって岩田研で10年ちょっとやってきて、いよいよ次は最終的な僕の目標である薬、と思ったんですけど、これがアカデミアだけではやっぱり難しいんですね。
アカデミアだけで創薬は難しいのですか。
薬ってシードになる化合物がでてきてもそれが本当に体内で目的の臓器に届くかどうかとなると、どの化合物でもいいというわけではないし、いろいろな化合物を合成展開しなければならないし、それは薬理でやっぱり評価しなければならないし、薬にするには臨床試験もしなければいけないし、フェーズ1,2,3という治験もしていかなければならないということで。ここから先はやっぱりアカデミアでは無理だなと思ったんです。
そう思いながらも、成宮先生の発表を聞いてなるほどと思ったのは、製薬会社さんは毎年いくつかの薬を出してはいるのですが、開発の段階で4割程度は薬になっていないものがあるんだそうです。それは例えばマウスやラットのような小さな動物では効果があっても、大きな動物には効果がみられなくなるものがよくあるらしいのです。それにはいろいろ理由があると思うのですが、僕は一つはヒトに近づくにつれて、細胞のシグナル伝達のメカニズムが複雑になるということが関係しているのではないかと思うのです。Gタンパク質もベータアレスチンを介するというようないろいろな経路がでてきますし、おそらく一つのターゲットに薬がくっついても複数のシグナルが流れるために最終的には一番必要なシグナルが打ち消されてしまう可能性があるのではないかと考えたんです。それを構造生物学的なアプローチでもう一回シグナル選択的な薬として開発できないか。つまり、今のGPCRでいうオルソステリック部位に結合しているリガンドとは別の新しいアロステリック効果をもつリガンドをデザインしてシグナル選択性を出すことで、ヒトに近づいても効果は出せるのではないかと考えるようになったのです。でも難しい(笑)。
製薬会社さんに聞いてみると、研究を中止した薬というのは、効かなかった時点でそのまま置き去りになっているらしいんですね。いろいろな化合物は作ってもその化合物はそのままの形で残っているらしいんです。僕はそこにちょっと目をつけていて、その化合物とか、そのために立ち上げたスクリーニング系を僕たちアカデミアに使わせてもらえないかと。そのような化合物がどうして効かなくなったのかを国の支援のもとに明らかにできれば、一度中断した薬をもう一度開発のレールに戻せるのではないかと思うんです。もちろんうまくいかない理由は製薬会社さんもやらないのですから、やってみてもわからないかもしれないですが。でもハイリスク・ハイリターンなことは日本がアカデミアを通して支援するような形でバックアップすれば、もしかしたらその中のいくつかには解決できるものがあって、もう一度創薬のレールに戻せるかもしれない。4割くらい開発を中止したものが2割になるだけでも製薬会社さんにとってはかなり成功率が高くなる。アカデミアの成果でシーズになるものをもっともっとプールすれば、企業さんもそれをもう一回薬を創ることにつなげられないかを考えてくれるのではないかと思うんです。
特に欧米ではアカデミアの成果をバイオベンチャーがいったん育ててある程度の形にしてから、製薬会社に移るという仕組みがあるんですが、日本はこの部分が抜けているんです。死の谷とかよく言われているんですが(笑)。この部分を育てるのもすごく大事なんですが、それはたぶん、他のプロジェクトがやるのではないかと思うのですけれど、例えば創薬等の後のプロジェクトで、企業が開発を中止しているターゲットをアカデミアが構造生物学的アプローチから協力して、成功の確率を高くしてあげられればなと。そうすればアカデミアがシーズを探索して、それをアカデミア創薬として世に出すシステムが立ち上げられることになるし、それによって企業に余力をつけることもできる。そうすれば今後の日本の創薬も変わってくるのではないかと思うんです。
今は企業とアカデミアには断絶がありますね。企業秘密とか。
特許関係はすごく難しいんです。でも、企業さんが現在開発しているものは難しいんですけど、止めたものは一切そのままになっているらしくて。意外だなと思ったのは、企業に話に行ったりすると、ぜひやってくれと言われるんです。企業の研究者の人は特にそう思っているらしい。その人たちにとってはやはり自分たちの思いや多くの時間を費やしてきた化合物なんですよね。それがそのまま置き去りになるよりは、もう一回何で効かなかったのかというところをアカデミアが調べてくれて、それでもう一度薬としての可能性が見いだせればと嬉しいと。「ぜひやってくれ、全部使ってくれ」と言われたこともあるくらいなんです。日本のアカデミア側でもこのことをうったえている人は意外と少ないのです。
なるほど。
先生のお話は研究のきっかけから始まって一気に次期のプロジェクトにまで来てしまいました(笑)。お話はとても面白いのですが、ここでちょっとお話を少し戻してもよろしいでしょうか。
はい(笑)。
かなり戻りますが、一度会社に入られてから、成宮先生とコンタクトを取られて研究生活に戻られたというあたりにどのようなことがあったのかということをもう少し詳しくお聞きしたいのですが。
細かい話をすると、僕が金沢大学の修士課程でDNA修復をやっていて、
え。これまたまったく違うお仕事をしていらしたのですね。
そうなんですよ。4回生の時には有機化学合成をやっていて、修士になってからDNA修復に関することをやっていたんです。その時の研究室の教授が京大の医学部出身の二階堂修先生とおっしゃるのですが、その先生にお願いすれば京大の成宮先生に連絡を取ってもらえるのではないかと思って二階堂先生に相談したら、すぐに二階堂先生が電話を取ってくれて、今でも覚えているんですが、当時放射線生物研究センターにいらした、今は退官されている武部啓先生に連絡してくださって、武部先生が成宮先生に連絡してくれたんです。成宮先生は当時まだ教授になって1-2年くらいで、武部先生が連絡してくださったのでコンタクトを取ることができたのです。
先生の熱意が伝わったのでしょうね。
そうなんです。その繋がりで成宮先生とお会いすることになったんです。先ほどもお話したように上司を連れて行った時が初対面だったんですが、その席で、成宮先生が会社の上司に「小林君を1-2年黙って預けてくれませんか。ものにならなかったら僕が責任を取ります」と言われたんです。
それはすごいことですね。
いや、僕はそこにすごく感動してしまって。若かったので(笑)。
クローニングもやったことはなかったんですけど、そういわれて僕はこの先生の下で少し勉強してみたいなと思って会社を辞めたんです。でもお金がなかったんですね。うちは母子家庭で家からの援助は望めないというのはわかっていたので、とにかく1年間会社で働いている間に貯められるだけ貯めたんです。寮生活だったのであまりお金も使わなくて済んだんですが、土日も寮の余っているごはんとかを食べてもいいといわれて食事代を浮かしたりして(笑)。それで1年間で200万円くらい貯蓄したんですよ。その200万円でやれるところまでやろうと。研究生活は忙しくてバイトもできなかったですし。当時2キロ100円でタイ米を売っていたんで、それをいっぱい利用しました(笑)。外食は一切していなかったし、一日500円と決めて、タイ米と卵でチャーハンを作って、という感じでしたね。
先生は薬学部にはいられて、薬を作りたいという気持ちはあったけれど、その場では望みがかなえられなかったという失望感がよほど大きかったのですね。
そうですね。最初は諦めたんですけどね。それで会社に進んでもやはり自分のやりたいこととは違うなということでもう一度探し始めて成宮先生に出会った。
お金がないことは成宮先生によく言っていたんですが、先生は小野薬品の奨学金をもらえるようにしてくださったり、僕が髪を伸ばして散髪代をけちっていたら、お金を1万円ポンと置いて「散髪してこい」と言われたり(笑)、そんな風にいろいろと生活援助してもらいました。
薬理をずっとやってきて、構造生物学、特にタンパク質発現、精製を薬理の教室でやっていたのは僕一人だったし、留学っていってもGPCRの構造生物学は難しいっていわれていたし、留学しても成功する保証はなかったんです。2004年に留学したんですが、2007年まではβ2-アドレナリン受容体の構造も解かれていなかったですしね。何人もの研究者がそれで討ち死にしているんです。
実は家内は医者(MD)なのですが、家内と一緒に開業しようかと思って、医学部に入りなおそうかと思ったことがあったんです。それで成宮先生には内緒で、留学中日本に戻ってきた時に滋賀医大に学士入学で願書を出したんです。今も持っているんですけど受験票もあるんですよ。
結局受けなかったんですが、僕、実は現役の時に実家から通える国立大学医学部を受けようと思って一回逃げたことがあるんです。共通一次は足切に合わずに二次試験まで行けたのですが、前期に薬学部、後期に医学部の試験を受けることにしていたんです。でも薬学部の試験がすごくできちゃったんですよ(笑)。それで、医学部の試験は会場まで行ったんですけれど受けずに帰ってきたんです(笑)。
後悔があるということですね。
そう。そういう後悔があって、医者になり損ねたという気持ちと、もう一方でやらなければいけないことから逃げたという思いもあって。でも今回は逃げたらいけないなと思ったんです。留学してこれをやろうと決めた以上は最後までやろうと。逃げないという意味で医学部の受験を辞退して、やっぱりGPCRの構造解析の研究をやろう、思ったからにはもう一回最後までやろうと。
今度は今やっていることから逃げないと。
もしあの時医学部を受けて医学部に進んでいたら、研究は好きなのでたぶん続けていたとは思うのですが、でも同じように難しいテーマにぶつかったら逃げていたかもしれません。逃げないために医学部を辞めて、研究を最後までやろうと決めた。その結果論文にまでまとまってよかった(笑)。
僕が今までを振り返って思うのは、確かに自分の時間というのは限られているけれど、自分の何をやりたいかというこだわりは譲ってはいけないということです。若い人たちにも自分はここは譲れないということはもってほしい。どの道を進んでも壁にぶつかることはあって、その時に逃げるという道はいっぱいあると思うのですが、踏ん張るかどうかが成功できるかできないかの違いにつながってくるのかなと。
一言に踏ん張るとか言ってもその時にはなかなか難しいですね。
そうなんですよ。お金もないと続かないですしね。たまたま僕は、お金はいっぱいはないのですが、その場その場で支えてくださる方がいて。留学中もお金が足りないときは岩田先生に向こうでポスドクとして雇ってもらえたりとか、そういうことがなければ続けてこられなかったでしょう。
論文というのがそのように努力してきたことの氷山の一角なのだということを実感しますね。
論文というのはたまたま結果でしかないけれど、それを続けられたのは多くの人が支えてくれたからだということなんです。留学中は家内も10年近く岩田研で一緒に仕事をしてくれたんです。その間は、臨床の仕事は全部やめて僕と夜まで岩田研でずっと一緒に研究やっていてくれたんです。かなり助かりました。だから、あの論文がうまくいったのにはそれもある。一人ではなくて二人分ですから。ここ数年前から仕事が少し軌道に乗ってきたので、家内は今また臨床に戻っているのですが、やっぱり家族の支えは大きかったですね。
僕がまた創薬にえらくこだわりだしたのは、いくつか理由があるのですが、その一つは、小学生の子供がいるんですが、子供に「何になりたいの」と聞いたときに「研究室で薬を作りたい」と言われたことなんです。その時、子供が大人になる時代には、日本はもっと高齢化が進んでいるし、今いろいろな製薬会社が撤退しているので、薬も作れなくなっているかもしれない、これがもっと進むと次の世代の子供たちにとって未来のない社会になるかもしれない、と思ったのです。そこで自分ができることは何かということを考えた時に先ほど言ったことを思い付いたんです。
そんなきっかけがおありだったのですね。
お話はまた変わるのですが、創薬等の事業は本年度が最終年度となるのですが、先生がこのプロジェクトに入られて、このプロジェクトに関して何か感想とかご意見とかございますか。
今回すごく良かったことは他の分野の人とチームを組めたということですね。僕はたまたまGPCRをやっているので、それをもとに何とかいろいろなことのできる研究基盤を作れないかと思っていました。僕が得意とすることはGPCRの生産、発現して精製して結晶化するところまで、出てきた結晶を効率的に測定してくれるのはSPring-8の山本雅貴先生のグループ、解けた構造から何が言えるのかというMDシミュレーションをしてくれるのがバイオインフォマティクスの広川貴次先生のところ、そこから出てきた化合物を実際に作ってくれるのが、東京医科歯科大学の細谷孝充先生のところ、そんな風にみんなでチームをくめて、GPCRの研究基盤を作ることができたっていうのは、このプロジェクトに入らなかったら「みんなで一緒にやりましょう」ということにならなかったかもしれない。何度も何度も例会で顔を合わせているうちに「やれたら面白いねえ」とか、「こういうことができるのではないか」という話ができたのがすごく大きかったですね。僕には以前にはそんな繋りはもっていなかったので、このような連携ができるのがこのプロジェクトならではですね。次のプロジェクトはこの形を発展させられるものがいいのでしょうね。
でも当初言われていた様にはうまくいかなかったかなあと思うのは、製薬企業に対する支援で、これは大きく進展しているという話は聞こえてこない。それは特許の関係で聞こえてこないだけなのかもしれませんが、意外と製薬会社さんと会って話しても利用しているという話は聞こえてこなかったですね。そこがうまくいかなかったところかなと思いますね。
そこで先ほどのお話につながるのですね。
おそらく製薬会社が今動かしていることはまさに薬にしたいターゲットだと思うのですね。それはシークレットにしたいというのは当然です。でもいったん中断したものは、まったく手を付けていないということがあって、実はそれだったら外に出してもいいよというのはあるようです。でもそのようなことはお互い意識していなかったと思うのですね。そういうことは次のプロジェクトでは「あり」ではないかと思いますね。
アカデミアの研究って、基本的には国が立ち上げる、例えばIPSとかガンとかいう大型予算に研究費を求めて進む傾向があるので、国が何かの方針をもって何かプロジェクトを立ち上げると、アカデミアの研究者は、たぶん自分たちの技術を応用できないかと考えてくると思うのですよ。アカデミアの良いところは確かに横のつながり、たとえば世界の最新の情報を企業よりは早く入手したり、共同研究から早く入手できたりするところなので、日本の企業のためにそういうところをうまく利用しつつ日本人が力を合わせるというのはいいのかな、とも思いますね。
もちろんアカデミアの立場からすると海外で最新の技術があればその方が手っ取り早いというのはありますが、日本の企業から創薬とか製薬企業の研究所がなくなるということは、日本としてかなり危機的な状況になるのではないかと思うんです。筑波のグラクソ・スミスクライン(GSK)は撤退したし、メルクの傘下の万有製薬も研究所を閉鎖し、愛知の方ではファイザーの研究所がなくなったりしているんです。特に外資系の会社は日本の研究所をつぶして上海に移したりしていますし、武田製薬なんかは日本の会社ですけれどトップはほとんど外国人ですから。日本で創薬が生まれなくなると大変ですよね。もともと資源のない国ですから。
本当にそうですね。
先生は研究生活に入られた最初に薬ということがあって、途中いろいろなことあっても最終的にはまた薬というところに戻ってこられたという訳ですね。
たまたまですかねえ(笑)。
本日は大変貴重なお話をありがとうございました。